思考する指と思考しない頭
2010.03.17 Wednesday | by 保坂
3月17日
朝日新聞の夕刊に毎週漢字テストの一部が掲載されている。
テストの難易度は3級の読み書きだ。時々見ては解答をしているのだが、そのことで最近ショックを受けている。読む方は殆ど問題ないのだが、書く方はやさしい字なのに思い出せない時がある。
こんなはずでは無かったのにと、ほぞを噛む思いである。
その原因は当然お年のせいなのかもしれないが、それ以上にパソコンのせいかもしれないと思えて何らない。何しろワードで文章を書けば、勝手に漢字が出てくるし、幾らも変換することで選択できる。
この安易さが問題なのかもしれない。
家内はあなたはパソコンをやっているからボケないはね、と言うが真実は別である。昔ならたえず辞書を傍において、判らなければ直ぐに引いていた。
そのことで知らず知らずの内に頭に入っていった。
今は只キーボードを打つことが全てとなっている。つまり頭をそれほど使っていないのである。だから家内が言うほど頭の体操になっているとも思えないのである。
更に言えば昔は文章は必ず手書きをしていた。だから頭の中で絶えず反芻しながら何行かの文章を作成してから、手書きしていた。処がパソコンを使うようになって文章を作成し始めたら、何故か頭の中で文章が作れなくなってしまっているのだ。
先日病院での待ち時間に余裕があったのでブログでも考え様かと、頭の中であれこれ考え始めた。処が幾ら考えても文章を構築できないのである。
よくよくその原因を考えた。判ったことは今の私が文章を考え、作るのは、キーボードを打つ指先だったということだった。思考しているのは指先なのだと思わざるを得ない状況になっていたということである。
まさか私がそんな改造人間になっているとは思っても見なかったので、ショックである。これでは漢字も書けなくなっているのも当然かもしれない。
かと言って字のへたくそな私としては出きるだけ文明の利器を活用したい気持ちがある。良く自筆の方が心がこもっているというが、私はあまりその辺の拘りはない。逆にわざわざパソコンを開けて作成してくれたんだ、との思いを感じてしまったりする。これも字の下手な人間の弁解かもしれない。
これからも状況的には、良い悪いに関係なく、指先感覚人間に益々なっていくことになってしまう。
そうして益々漢字の書き方を忘れていくのである。
朝日新聞の夕刊に毎週漢字テストの一部が掲載されている。
テストの難易度は3級の読み書きだ。時々見ては解答をしているのだが、そのことで最近ショックを受けている。読む方は殆ど問題ないのだが、書く方はやさしい字なのに思い出せない時がある。
こんなはずでは無かったのにと、ほぞを噛む思いである。
その原因は当然お年のせいなのかもしれないが、それ以上にパソコンのせいかもしれないと思えて何らない。何しろワードで文章を書けば、勝手に漢字が出てくるし、幾らも変換することで選択できる。
この安易さが問題なのかもしれない。
家内はあなたはパソコンをやっているからボケないはね、と言うが真実は別である。昔ならたえず辞書を傍において、判らなければ直ぐに引いていた。
そのことで知らず知らずの内に頭に入っていった。
今は只キーボードを打つことが全てとなっている。つまり頭をそれほど使っていないのである。だから家内が言うほど頭の体操になっているとも思えないのである。
更に言えば昔は文章は必ず手書きをしていた。だから頭の中で絶えず反芻しながら何行かの文章を作成してから、手書きしていた。処がパソコンを使うようになって文章を作成し始めたら、何故か頭の中で文章が作れなくなってしまっているのだ。
先日病院での待ち時間に余裕があったのでブログでも考え様かと、頭の中であれこれ考え始めた。処が幾ら考えても文章を構築できないのである。
よくよくその原因を考えた。判ったことは今の私が文章を考え、作るのは、キーボードを打つ指先だったということだった。思考しているのは指先なのだと思わざるを得ない状況になっていたということである。
まさか私がそんな改造人間になっているとは思っても見なかったので、ショックである。これでは漢字も書けなくなっているのも当然かもしれない。
かと言って字のへたくそな私としては出きるだけ文明の利器を活用したい気持ちがある。良く自筆の方が心がこもっているというが、私はあまりその辺の拘りはない。逆にわざわざパソコンを開けて作成してくれたんだ、との思いを感じてしまったりする。これも字の下手な人間の弁解かもしれない。
これからも状況的には、良い悪いに関係なく、指先感覚人間に益々なっていくことになってしまう。
そうして益々漢字の書き方を忘れていくのである。