荒川 メッキ工場盛衰記
2009.11.23 Monday | by 保坂
11月23日
朝食を済ませ炬燵の有る居間に戻った。
今までだと朝食後もリビングにいて、新聞を読みながら、テレビを見るというのを通例としていたのだが、風邪を引いてからは、家内に移してもいけないこともあり、炬燵の有る居間に直行する。
炬燵に入ろうとして開いている障子戸から西の空を見上げる。何時もと違う風景である。遠く西の空に秋霞みの中朝日に輝いて白きたおやかな富士が上層部を覗かせていた。
その左側ずーと手前の街並から黒煙が立ち上がっていた。慌てて家内を呼んだ。家内は火事じゃないんじゃないのという。何しろ8階に移り住んで以来、殆ど煙り立つ光景は見たことが無かっただけに、火事に対する実感が無い。
そうこうする内にヘリコプターが現れた。何と4機である。火事以外には考えられない。益々黒煙を上げ始めている。煙の色からすると何となく工場が焼けているような気がした。幸い風は北から吹いていることもあり、煙はこちらには向かっては来ない。恐らく町屋駅の方角に流れている様だった。
見当からするとモノレールの舎人線の隣接地、赤土小学校駅の近辺のような気がした。慌ててテレビをつけた。地震と違い、直ぐには報道されない。
朝食を済ませ炬燵の有る居間に戻った。
今までだと朝食後もリビングにいて、新聞を読みながら、テレビを見るというのを通例としていたのだが、風邪を引いてからは、家内に移してもいけないこともあり、炬燵の有る居間に直行する。
炬燵に入ろうとして開いている障子戸から西の空を見上げる。何時もと違う風景である。遠く西の空に秋霞みの中朝日に輝いて白きたおやかな富士が上層部を覗かせていた。
その左側ずーと手前の街並から黒煙が立ち上がっていた。慌てて家内を呼んだ。家内は火事じゃないんじゃないのという。何しろ8階に移り住んで以来、殆ど煙り立つ光景は見たことが無かっただけに、火事に対する実感が無い。
そうこうする内にヘリコプターが現れた。何と4機である。火事以外には考えられない。益々黒煙を上げ始めている。煙の色からすると何となく工場が焼けているような気がした。幸い風は北から吹いていることもあり、煙はこちらには向かっては来ない。恐らく町屋駅の方角に流れている様だった。
見当からするとモノレールの舎人線の隣接地、赤土小学校駅の近辺のような気がした。慌ててテレビをつけた。地震と違い、直ぐには報道されない。
十時近く荒川の火事のニュースが流れた。
メッキ工場と報道された。更に昼近くラジオで死者が一人出たことも報じられた。大きな火災となっていた。
寒さが厳しくなって来るとどうしても暖房を使う事が多くなり、火事につながって来るのだろう。それにしても他人事ながらメッキ工場となると再建ができるのか心配になってしまう。元々この町屋・尾久地域はメッキ工場がとても多かった。近くを隅田川が流れていた事も影響しているのかもしれないし、その隅田川から運河が何本も入り込んでいた事もあり、工場排水を流すのに便利だったのだろう。
私の親戚筋にもメッキ工場があるし、お客さんの中にもメッキ工場を経営している方が何軒か有る。公害問題が叫ばれ出した昭和の後半から、メッキ工場はその管理維持に大変な労力と資金を注ぎ込んでいる。恐らく今では新規では認可されないであろう。
昔は荒川区といえば零細企業の寄り集まった地域だっただけに、何かことが起きても、お互い様みたいな所があり寛容だった。その意味ではとても仕事がやりやすかった。ところが千代田線が開通する頃より利便性が見直され、新住民の方々が移ってきた。
昭和の30年代当時17万人を切る状況で、更に年々人口は減少していくだろうと予測されていた。それが今では20万人に膨れ上がり、工場地帯と言うより、完全に住宅地化してしまった。
住民の目も工場に対して厳しく、それを反映して行政の取締りにも変化が出てきた。
工場にとっては世知辛い世の中となったと言うことである。
火災にあったメッキ工場が再生するのは行政の面からも厳しいのではとニュースを見ながらおもった。
何とか再生できれば良いのだがと、他人事とは思えず、いまだ残る白い煙を見ながら願っている。
メッキ工場と報道された。更に昼近くラジオで死者が一人出たことも報じられた。大きな火災となっていた。
寒さが厳しくなって来るとどうしても暖房を使う事が多くなり、火事につながって来るのだろう。それにしても他人事ながらメッキ工場となると再建ができるのか心配になってしまう。元々この町屋・尾久地域はメッキ工場がとても多かった。近くを隅田川が流れていた事も影響しているのかもしれないし、その隅田川から運河が何本も入り込んでいた事もあり、工場排水を流すのに便利だったのだろう。
私の親戚筋にもメッキ工場があるし、お客さんの中にもメッキ工場を経営している方が何軒か有る。公害問題が叫ばれ出した昭和の後半から、メッキ工場はその管理維持に大変な労力と資金を注ぎ込んでいる。恐らく今では新規では認可されないであろう。
昔は荒川区といえば零細企業の寄り集まった地域だっただけに、何かことが起きても、お互い様みたいな所があり寛容だった。その意味ではとても仕事がやりやすかった。ところが千代田線が開通する頃より利便性が見直され、新住民の方々が移ってきた。
昭和の30年代当時17万人を切る状況で、更に年々人口は減少していくだろうと予測されていた。それが今では20万人に膨れ上がり、工場地帯と言うより、完全に住宅地化してしまった。
住民の目も工場に対して厳しく、それを反映して行政の取締りにも変化が出てきた。
工場にとっては世知辛い世の中となったと言うことである。
火災にあったメッキ工場が再生するのは行政の面からも厳しいのではとニュースを見ながらおもった。
何とか再生できれば良いのだがと、他人事とは思えず、いまだ残る白い煙を見ながら願っている。